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父
日記の日付: 2005年6月27日月曜日日記タイトル: kosodate125_050626: 父
いつもはこどもの話や夫婦の話ばかりですが、今日は自分がどう育ってきたかに関連することを書いてみようと思います。
先週の木曜日、父親が肝硬変&肝細胞癌の治療を受けている病院に主治医の話を聞きに言ってきました。前回の診察の時に、息子の私とも話しをしておきたいと先生がおっしゃっていたとのことだったので、覚悟はしていましたが、肝機能がかなり落ちており、後1年はまず無理とのお話でした。そんな話を聞いたので、通勤の電車の中でも、仕事の合間にタバコを吸っているときも、ふと昔のことを思い出してしまいます。
私の父親は、昭和の初めに新聞記者の長男として東京で生まれました。当時の新聞記者は、今の新聞記者よりステータスが高く、さらによいお給料ももらっていたようです。父の生まれた家には(新聞記者をしていた)祖父がなくなるまでは、お手伝いさんもいるほど裕福だったようです。そのせいもあり、いわゆるお坊っちゃん育ちだったようですが、私の父はとにかくまじめに一生懸命がんばるタイプの人でした。私は、どちらかというと母親似で、要領がいい方でしたから、小学生の高学年の頃には同じ課題を同時に父親と始めたら負けないと思っていました。ただ、父親をバカにする気持は一貫していだいたことはありません。プレスの型のデザインをするという技術職でしたので、よく家で専門の定規や線引き、シャープペンシルを使って図面を引いていたりもしており、私に自分の働く姿を見せていましたし、私もこどもながらに父親の仕事をする姿が好きでした。今思うと尊敬していたのだと思います(そして、今その人生を貫き通しつつある父を本当に尊敬しています)。
その後、祖父の死と戦争により父の家族の生活は激変したとのことです。戦後、貯金をおろすことができず、財産が紙屑になったと昔祖母が話してくれたような気がします。
若い頃に結核を病んでいたことがあり、肺の一部を手術で切除していましたので、激しい運動はしませんでしたが、下手ながら私のリクエストに応えてキャッチボールをしてもらったことはよく覚えています。工作や電気関係には多少自信があったようで、プラモデルやバルサモデル(バルサ材でできたプラモデルみたいなもの)の飛行機を仕事のあと、書斎で作ってくれたりしました。小学校6年生の時には、ボーイスカウトでアマチュア無線の資格をとることになり、父が一生懸命教えてくれました。決して、要領のいい教え方ではありませんでしたが。
怒るのはいつも母の役割で、いつも母には怒られていましたが、不思議なことに私には父に反発したり、ひどく怒られた記憶がありません。お坊っちゃん育ちのおかげでしょうか、そういうことは超越していたようです。また、落ち込んだり、悲しんでいる姿も見たことがありません。わかりやすい例でいうと、メディアに登場する天皇みたいな感じです。ただ、母に細かいことで文句を言ったりと人間らしいところがないわけではありません。
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ものぐさ父さんのコメント
うちのお母さんも定期的に購入していました。専門家の見解もためになるのですが、親の体験談が豊富で、より具体的な事例をベースに子育てについて考えることができます。身近に子育てに関するアドバイスを求めることができる経験者がいない人には、得におすすめです。